2009年6月1日
2009~10年シーズンの幕開けとなる、第50回全日本実業団選手権が近づいてきました(7月8日から、名古屋市で開催)。
この大会に07年の第48回大会に34年ぶりでの復活出場を果たして以来、3年連続でのチャレンジとなるのがセントラル自動車(神奈川)。
高校を出たばかりの10代選手もエントリーする、若さあふれるチームを率いるのが、今シーズンから監督に就任した芹沢賢治さん。
同年代の人や「スポーツイベント・ハンドボール」を長年ご愛読いただいている方には、懐かしい名前でしょう。
以下、芹沢さんをクローズアップしていきます。
埼玉・鳩ヶ谷市立里中学校時代はバスケットボール選手だった芹沢さんですが、ご両親が浦和学院高校・岩本明監督と知り合いだった縁で、浦和学院高校に進んでからハンドボールに転向。
山口武仁さん(法大→三景)ら中学校からのハンドボール経験者が揃う中、類まれなスポーツセンスを活かしてグングンと成長し、高校からのキャリアとは思えぬプレーで主力選手に。
高校3年の清水インターハイ(91年)では準優勝に貢献し、国士舘大に進んでからも関東学生リーグ、全日本インカレで活躍し、全日本総合選手権にも出場しました。
スリムな体格でしたが、シュート、パスともに抜群のセンスが光り、卒業時は日本リーグチームからも熱いラブコールが。
けれども、芹沢さんは98年の地元国体をターゲットとしていたセントラル自動車へ就職の道を選びました。
第4回から第7回まで、日本リーグ2部に所属していた実績もあるセントラル自動車でしたが、第7回大会後の入れ替え戦で敗れて降格して以降は、毎年2月の全日本実業団トーナメント(現・実業団チャレンジ)や国体がおもなターゲットに。
また、会社内でも強化クラブという位置づけではなく、文化会という組織の中の1クラブ。
練習への優遇などはなく、製造ラインに入って夜勤の選手も少なくない、という状況では、思うような強化はできません。
もちろん、会社にハンドボール部があり、屋外とはいえ独身者寮に隣接した専用コートもある、という環境は、日本全体で考えれば恵まれた環境ですが、高校、大学で日本一をめざすチームでプレーしていた芹沢さんにとっては、事前にわかっていたこととはいえ、ギャップを感じざるをえませんでした。
当時の心境を「(卒業後の進路選択を)しばらくは後悔しました」と振り返った芹沢さん。
地元国体を契機にチームの再興を、という期待もありましたが、現実はそう思いどおりにはいきませんでした。
坪根敏宏さん(元湧永製薬)や辻昇一さん(元トヨタ車体)、広政宜孝さん、茅場清さん(いずれも元Honda)ら、同期生が国内トップゾーンで活躍するばかりか、日本代表選手としてアジア、世界でも躍動したのとは対照的に、芹沢さんは部員不足による廃部の危機なども経験することに。
状況的にはハンドボールと縁が切れてもなんらおかしくありませんでした。
それでも、風前の灯(ともしび)となっても、その灯を現在、チーム顧問の吉田實さん(チームOBでセントラル自動車取締役)ら有志のみなさんとともに絶やすことなく守り続けたことで、芹沢さんには華やかだった同期生たちとは、またひと味違った追い風が吹くことになります。
(続く)