2009年7月18日
高校生の夏の祭典、インターハイが近づいてきました。
京都でのインターハイ開催は1997年以来、12年ぶりになります。
平成生まれの高校生のみなさんにとっては、もはや“伝説”の域でしょうが、97年の1年前、96年の山梨インターハイまで、インターハイといえば、広いグランドに6面のコートが用意され、まさしく一堂に会するといったシチュエーションで行なわれたものでした。
全国大会という熱気にあふれ、観客のみなさんにとっても同じ敷地でお目当てのカードもはしごできる状態。
そんなメリットとともに、デメリットもありました。
1年のうちでも一番暑い時期の炎天下での試合は、入学してからの成果を競い合うというよりも、まず暑さにどれだけ耐えられるか、という我慢くらべと化し、突然のにわか雨や雷雨が試合の流れに影響を及ぼしたことも。
また、広いグランドに6面のコートを確保して整備し、仮設スタンドを用意するだけでも多くの費用が必要なのに、雨天時に備え、天候によっては使用しないまま終わる体育館を用意しなければいけないとあって、開催地の負担はかなりのものでした。
そうしたさまざまな問題をクリアし、よりよい環境で腕くらべをするため、97年の京都インターハイでは、1979年の兵庫インターハイ以来となる、全試合インドア化が実現することになりました。
全試合インドア化がうれしいことには違いなかったのですが…。
6面のコートを確保できるグランドのような体育館は存在しませんから、会場は分散。
4会場5面のコートでの大会となりました。
この会場の分散というのが、私たちのような試合を取材する側には、想定を超えて重くのしかかってきます。
本当ならば1つのコートに1人のスタッフが張りついて取材をすべきところですが、前年までは6面を3人でカバーしていましたし、当時はバスケットボールの専門紙も発行していた弊社。
やはり、アウトドア時代と同様、3人という限られたスタッフで、京都に向かわざるをえませんでした。
当時は八幡市民体育館(1面)、田辺中央体育館(1面)、同志社大学体育館(2面)、同志社女子大学体育館(1面)というコート体制。
八幡と田辺は1人が1面を担当し、地図上は徒歩で移動可能距離に思えた同志社大と同志社女子大の3面を残る1人がカバーすることに。
京都に向かうスタッフが、私とインターハイ2回目、そして今回がインターハイデビューという女性2人という編成となったため、無条件!?で男性の私が3面担当となりました。
いったい、どんな取材になるのか?
不安を胸に、いざ、会場へ行ってみると…。(続く)